秋常山古墳群保存整備事業・西山古墳群詳細分布調査

 

はじめに

能美市内には、今から約17001400年前に造られた「古墳」と呼ばれる墳墓が数多く分布しています。
なかでも平野部の丘陵上につくられた寺井山・和田山・末寺山・秋常山・西山の古墳群は「能美古墳群」と
総称され、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などさまざな形の古墳や多くの貴重な副葬品が見つかって
おり、北陸を代表する古墳群として知られています。

能美市教育委員会では、この貴重な古墳群をより良いかたちで保存し、後世に継承していくために能美古
墳群の保存整備事業を進めています。平成19年度は、秋常山古墳群の保存整備工事と西山古墳群の詳細
分布調査を実施しました。

 

T 秋常山古墳群保存整備事業

@保存整備事業の概要

秋常山古墳群は昭和59年に発見され、県内でも最大規模の前方後円墳が存在していると指摘されました。
その後、旧寺井町によって詳細な地形測量と発掘調査が実施され、1号墳は北陸でも最大級の規模を誇る前
方後円であることがわかりました。また、2号墳は5世紀の中頃につくられた一辺約30mの埴輪を並べた方墳
で、埋葬施設には大刀・刀子・針・竪櫛・臼玉が副葬されていました。

平成11年、秋常山古墳群はその重要性から国の史跡に指定され、平成16年度から保存と古墳学習の場と
しての活用ができるように整備事業を開始しました。現在、平成21年度の完成を目指して整備が進められてい
ます。

B平成19年度の事業内容

1号墳では、まず後円部1段目の墳丘復元と保存盛土工事を行いました。墳丘は1600年の時を経て当時の形が
損なわれていることから、発掘調査成果をもとに墳形を復元し、壊れている部分は修復し、残っている部分は盛土で
保護していきました。

また、1号墳では発掘調査によって墳丘の斜面に「葺石」呼ばれる河原石を葺いていたことがわかりました。これは
墳丘の土が流れないようにするためと、装飾的な効果をもたらすためになされたと考えられます。葺石がなされる古
墳は県内でも少なく、さらに推定総数約40万個、総重量約600tもの石を手取川から運んでいたと考えられ、古墳づ
くりにかけられた労働力の大きさがうかがえます。整備工事では、現代までに残されていた当時の葺石は盛土によっ
て保存し、当時の様子を再現するため新たに葺石の復元を行いました。

                復元された葺石

 
2号墳では、埋葬施設の発掘調査を行っており、粘土で覆われた木棺の中からさまざまな副葬品が出土しています。
今年度は、埋葬施設が発掘された状況をそのまま見ることができる展示施設の設置を行いました。墳丘内部に覆屋
型の展示施設をつくり真上と真横から埋葬施設が見学できるようになります。

 また、2号墳は能美古墳群で唯一の埴輪を持つ古墳であるという点でも注目されました。残念ながら出土した埴輪
は小さい破片しかなく、元の状態に戻すことができませんでしたが、全体を復元したレプリカの製作を行い、元の位置
にあったと推定される墳丘頂上部に並べていきます。 
その他の工事として、過去の土採取工事で崖面となった2号墳周辺部分で、安全性を確保するために擁壁工事を行
いました。

          

        2号分墳展示施設                            復元された埴輪



U 西山古墳群詳細分布調査

@詳細分布調査の概要

西山古墳群は標高約36mの丘陵上に分布する古墳群で、15基以上の古墳があったと推定されます。昭和30年代
から40年代にかけて西山で土採取工事が始まり、古墳が消滅の危機を迎えたことから、緊急の発掘調査が行われ、
2基の弥生墳丘墓と5基の古墳が発見されました。甲冑や馬具など貴重な副葬品も見つかり、能美古墳群では最も古
い6号墓・12号墓、最も新しい1・2・8・9号墳がつくられていることがわかるなど能美古墳群の始まりと終わりを告げる
古墳群として注目されました。しかし、その後、本格的な調査は行われず今日に至っています。
 能美市教育委員会では、能美古墳群のなかで重要な位置を占める西山古墳群について、まず古墳の数や規模、時
期などの正確なデータを得るため、今年度から3ヶ年計画で詳細な分布調査を実施していきます。

 

B平成19年度の調査成果

調査1年目にあたる今年度は、過去に土採取工事があまり行なわれず、古墳が比較的良好に残っていると想定され
た南尾根を調査しました。過去に行われた分布調査では4・5号墳と名付けられた2基の古墳が予想されていました。


【見つかった遺構と遺物】

今回の調査ではこれまで4・5号墳とされてきた2基の古墳が山城の土塁の一部であることがわかりました。残念なが
ら南尾根では古墳が発見されませんでしたが、新たに弥生時代終末期の遺構、鎌倉時代の中世墓、戦国時代の砦址が
みつかりました。南尾根では複数時期にわたって人々の利用がなされていたようです。

(1)弥生時代終末期(3世紀前半)

南尾根の西側を中心に、土壙墓と推定される遺構や柱穴と推定される遺構、溝が検出されました。出土した土器から
弥生時代の終わり頃のものと考えられます。今回の調査は保存目的であることから遺構の掘削は行っておらず、詳細な
ことはわかりませんが、同じ時期に和田山でも人々が生活していた痕跡や、西山の北尾根で土壙墓が見つかっているこ
とから、同様の集落・墓域があったと考えられます。

 

(2)鎌倉時代(13世紀)

西山砦の土塁をつくるために用いられた盛土から多量のかわらけや珠洲焼、河原石が出土しました。土器は13世紀の
ものを中心として一部1214世紀のものも含まれます。残念ながら遺構は検出されず、砦をつくる時に破壊されてしまった
ものと考えられますが、出土した珠洲焼の壺が市内長滝経塚で発見されたものと類似していることや、かわらけ・河原石と
の組合せから鎌倉時代を中心とした中世墓があったのではないかと推定されます。

 

(3)戦国時代(1516世紀)

曲輪・土塁・切岸の防御機能を備えた山城が新たに発見されました。規模も小さく、土塁の作り方も簡易的な方法であり、
短期決戦を目的とした臨時的な砦であると考えられます。しかし、地形の低い部分には整地をして曲輪や切岸、虎口部分
をつくり出しており、シンプルな構造ながらも高い防御性を意識した砦であることがわかりました。土塁上では柵列の跡と考
えられる遺構が見つかりました。遺物が出土していないため、正確な築城・廃城時期は不明ですが、県内での山城の築城
状況から見ると、16世紀後半の戦国時代末期が考えられます。可能性としては、天正5年(1577年)、加賀国へ進出した織
田軍が上杉謙信と手取川で対峙した時に築かれた織田軍の陣城、もしくは天正3年(1575年)以降加賀南部に進軍した織
田軍が、和田山城に在城する一向一揆を攻めるにあたって築いた陣城などが考えられます。今後、砦の立地や能美市内に
築かれた和田山城、虚空蔵山城などとの比較から西山砦が築かれた背景を追究する必要があります。

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