辰巳用水は、江戸時代はじめの寛永9年(1632)(寛永6年説もある)に金沢城の水利を改善する目的で加賀藩が造営した延長約11kmに及ぶ用水である。造営目的は、寛永の大火を契機とする金沢城の防火機能の向上、水堀化による防御機能の向上及び城内庭園の泉水供給等と考えられ、設計・施工には小松の町人板屋兵四郎が登用されたと伝えられている。
取水口は犀川上流の現上辰巳町地内に設けられ、江戸時代後期に2度、上流側に付け替えられており、上流部の開渠区間については、18世紀末までに隧道化が開始された。中・下流部の水路は開渠水路であり、最下流部では現在の兼六園から百間堀で隔てられた金沢城へ導水するため木樋を埋設した、いわゆる逆サイフォンの原理を利用し、二の丸まで揚水するものであった。これまでの発掘調査等によって、隧道に並行して走る開渠跡や、用水法面を保護する三段石垣等が見つかっている。
このように辰巳用水は、江戸時代の土木技術を知る上で貴重であることから、上流部、中流部を中心とした延長8.7kmを史跡に指定している。
土清水塩硝蔵跡(以下、「塩硝蔵跡」と呼ぶ。)は加賀藩の黒色火薬製造施設である。金沢城からは直線距離で約4.5kmの辰巳用水の中流部に位置し、敷地面積は幕末時点で約11万uと想定されている。敷地の東側には辰巳用水が流れ、その水流を利用して水車を回すなどして黒色火薬が製造された。操業期間は万治元年(1658)から明治3年(1870)頃までと考えられる。
塩硝蔵には黒色火薬の原料である塩硝(硝石)・硫黄・木炭が集められた。このうち塩硝は越中五箇山にて独自の製法により生産され、硫黄は越中立山で採取・精製され、木炭は塩硝蔵内の施設で生産された。これらは敷地内の諸施設で黒色火薬に加工された。
これら諸施設の一部は平成19年度から22年度まで実施した発掘調査により、建物や施設の遺構が良好に残存していることが判明した。これにより塩硝蔵跡と辰巳用水が強い関連性を持った文化財であることが明らかとなり、それぞれの文化財的価値を高めるために必要な要素であることから、今回、辰巳用水に隣接する塩硝蔵跡の敷地を追加指定し、保護の万全を期するものである。
(石川県HPより転載)
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